人間誰しも、日常を逃れて非日常への逃避に憧れを持つものです。
そして現状を様々な社会的制約に縛られている現代人だからこそ、
非日常イコール自由
という発想に至りがちです。
日常からの解放という意味では、たしかに相通じる点もあるのです。
これが駄目だということではありません。むしろ、当たり前のことでしょう。
しかし、この自由というのがなかなか厄介です。
自由が日常になると、今まで社会のしがらみの中で生きて来た我々は、立ち止まることになるのです。
自由を許される環境にある人間にとって、大切なのが、
自由を操る能力
なのです。
自由があるとはいえ、普通の一般人であれば社会的、経済的、時間的な拘束から完全に逃れるのは不可能。
いくら自由といっても、お金が無尽蔵にあるわけでも、時間が永遠にあるわけでも、何をしても許されるわけでもないので、
自分をいかに上手く「泳がせる」かが大切になるわけです。
では、どうやったら上手く泳がせることができるのか?
それこそが人生そのもので、その人の知性が発揮されるところなのでしょう。
自由な人。他人からそう見えていてもその内情は、個人によって自由不自由の厳然たる格差が生じているものなのです。